出だし途中から
昭和44年10月31日 朝の御理解
途中から
おおくもの、今日はどんな風なせんですけども、(?)なさったですかと言うて、わざわざ出てきて下さった方もあった、勿論行く人達が正義さんと文男さんと、それから杉山さんと三人で行ってくれました、もう大型の車にもうぎっしりもう本当に忘れた様に荷物が詰まりました、まあ良うもこんなに、是で一台に乗ってしもうたという位にもうきっちりでした、もう集まっておるものも神乍らな事だったなぁと私は思いましたんですけどね、もうその事について。
ら皆さんが心配して「どげんしよりなさるですか」とわざわざ、例えば来て下さったんです、「そりゃもう誰かするくさい」と言うたらそれまでの事。秋永先生なんかは、もう別のに自分午前中、御用して下さっとったんですから、別に(?)じゃないけれども、やっぱり荷物の出る前に、まあどんなだったじゃろかと心配して下さったから、いわゆる心配りをそのまま形に現してなら出て来て色々と指図して下さった。
菊栄会の方達もなら九人も、みえられその事をして下さった、送り出しも全部行って出て下さった。私はあの心配するというのはね、あの「先はどうなるじゃろか」と、言う様にその心を言わばその事が気になる、心配で心配で眠られん、そういうのじゃなくてです、そういう時にはいわゆる心配りというものが、私はなされていないからだとこう思う、だからその心配なら心配ってしもうたら、だから心配ない筈なんだ。
家で心配ばぁっかりしとらずに、御広前へ出てお取り次ぎを頂いて、お願いしてご覧心配なくなるが、心を配るからなくなると。持っていくものの中に私、茶道具を少し沢山、私も頂いてますのがありますから、持たしてやりたいと思うて、さああれを持たしてやろう是を持たしてやろうと、私は全然茶道具扱ってないから、どこに何があるかが分からん、繁雄さんがもうみえるじゃろう、もうみえるじゃろうって。
一昨日から待っておるけどみえん、昨日もみえんでとうとう仕方が無いから、みんな引き出して見たけれど、さあ私はあればやろうと思うとる物が見つからない、あんまり沢山あるもんだから、ですからまあ手当たり、その他の物を持たしてやりましたけれども。例えばお茶の事やら道具の事は、繁雄さんが受け持っておられるし、勿論あの中から一遍茶道具を一揃えやろうと、思いよるからと言う事は、私は繁雄さんに言うてもあるし、知っておられる事ですから。
「はぁ自分がおらんなどげんなったじゃろうか」と心配しておられたら、例えば昨日は、昼からでも出てみえなければ嘘だったと私思うです、いわゆる心配りが足りなかった、「外の者じゃ分からんことなんだ、私が行かにゃ分からん事なんだ」とそれをいい加減にして、どんなに実意であってもその丁寧が欠けたらもう、いわゆる駄目なんだ、いわゆる実意丁寧神信心というものがそこまで続かなければ。
それが天地日月の心なんだ、丁寧と言う事は心配り、心配りとは心配、その心を配るから心配が無くなる、おかげを受けられるのです、そうでしょうが、埀でも心配の時に、お願いにきてから、先生がそれを「はいはい」と言うてお取り次ぎして下さった、心がすきっとして安心して帰れるでしょうが。金光様の御信心さして貰うならそこが肝要なんだ、「天地日月の心になる事肝要なり」と。
仕事のことに実意でありたい、同時に丁寧でありたい、でそのことを「何事にも信心になれよ」とおっしゃるから、そうすることが信心だと悟らしてもらわにゃきゃいけん、金光様のご信心は。今朝私御祈念中に、頂きます事が、ここの御広前の隅々に、(鍵の手?)に俵がいっぱい積んである所を頂いた、この御広前の隅々にですね、俵が(鍵の手?)にしかも沢山積んであった、どう言う事だろうかと私は思うた。
それでいわゆる只今この御理解7節を頂いて、「天地日月の心になる事肝要なり」ということがです、はぁこれだなぁと私は思うた私共がですね、心配りをするということ、もうこれだけしとるから、もう良かてんなんてんっち言う事は横着でしょうが。どれだけしても、どれだけしても足りんのが真なんだ、だから是でよいと思うたらもうそれは横着なんだ、だけで出来んならばです。
その後が詫びて、詫びて詫びぬからなければいけん、「もう是だけしとりますけん」っち言うて、大きな顔しとったんじゃもう信心にならんのだ、相すいません詫びる所から、その信心の姿勢というものが生まれてくる。私共の日常生活の中にです、本当におかげを頂きたいと、願うなら実意丁寧神信心にならなきゃいけない、丁寧にならなきゃいけない、それがねそういうおかげ、いわゆるおかげを受けたいならです。
そういうおかげがどこにあるかと、御広前の真ん中にはなかと、御広前の真ん中にはなかって、うんなら御広前に、隅々にあるということなんだ、御広前の隅々にある、私共の生活のその端々にある、十の事を八つしてからもうやれやれじゃなくて、その後の一つか二つかのところに。最後に行き届くところに、おかげが私はあるとお知らせ下さったんだとこう思うです。
隅々の(歓の手?)に俵が積んであった、勿論米俵です、いわゆるままになる、ままになる元です、米はそのままになる元はね、私共の生活の隅々にある、どんなに素晴らしいことが出けても行き届かない人、ね、肝心要の最後の所をいい加減にする人は、本当のおかげになりません、「もう良か良か」っち、最後の最後のところまでです、私は几帳面に、行き届かせて頂くということが丁寧だとこう思います。
御広前の隅々にある、御広前で様々な行事がある「どげんなるじゃろうかどげんなったじゃろうか」としっ心を配りをする、そんならちょっと出て、出て行きなっとんしなければ、出てみなければ安心がいかんこれが心配りなんだ、信心の稽古をさして頂いておる御広前の隅々を気付けなきゃいけない、大祭なら大祭ただ参って来るだけを大祭のごと思うとる、大祭を仕えるまでには、様々な御用がいっぱいあるのだ。
「あれはどうなったじゃろか、あれはこうなったじゃろうか」と心配する、心配するから出てこなければおられない、そこんところをです私は丁寧な信心だとこう思う、心配りをせなければいけん丁寧とは心配り、しかもその丁寧なその言わば隅々に、私共の生活の隅々に、普通の者はそこん所をいい加減にするのだけれども、信心さして頂く者は、人がもう大事にしないところを、そこんところを大事にする。
もう他ん所は奇麗になったから、(?)はどうげん良かというのでなくて。例えばむしろ人が粗末にする、お便所の様な所を大切にする、それが丁寧なんだ、そういう風に思わして頂く、なら私共の一日の一日の生活の中にもです、随分とお粗末御無礼になっておることがあるだろうとこう一つ今日は分かって頂きたい、そういうおかげになる元がね、その隅々あると今日、はっきり頂くのですから。
丁寧を欠いでおることが隅々にあるのだと、金光様の信心さして頂くならどうしてもこの実意丁寧神信心がです、身につかなければおかげになりません。生活の私共の端々隅々に、そういうおかげを頂けれる元が、原動力がその原動力、その元がそこに潜んでおるのだから、そこを頂かなければ、本当にままになるおかげを受けられんと言う事を、分からして頂いて自分のなら生活の、あり方というものを一遍振り返ってご覧なさい、なるほどおかげはそこから漏れよるばいなと言う事が分かるでしょうが。
それこそ信心のない者にでもおかげはやってあると仰るのですから、おかげはやってあるんだけれども、願うからおかげはやってあるんだけれども、そういう隅々からを、心配りをしない、そのお粗末御無礼な所から、おかげが漏れておると言う事になるのです、そこでなるほどおかげが受けられんはずだなぁと分かる、そこでそこを大事にしていくという事が、丁寧であるということ。
「何事にも信心になれよ」とおっしゃる、そうそのことが即信心だと、お道の信心では、拝むことばっかりじゃない、参ることだけじゃない、そのことを大事にしていくということが信心なのだ、「天地日月の心になること肝要だ」とこう言うておられますから、その肝要の、一番肝要肝心なところを、お粗末にして、なるほどおかげが受けられるはずはないと思いますね。
私自身も今日の所頂かしてもろうて、ははぁ成程是は本当に肝心な所を、お粗末にしておるなぁお粗末にしておったなと、思うことがいくらも思い当たる事が御座います、今日はそこんところをです、一つ丁寧に行じていきたい、いわゆる実意丁寧神信心のその丁寧と言う所丁寧と言う事は心配りと、私共がおかげを受けたいと、決して真ん中にはおかげはない、言うならば宝くじを探す様なもの、誰でん気がつく所に、宝くじは隠してはなか、宝捜しって言う事も良くやるでしょう。
あんな、余興に、もう人に気の付かんごたるとこ、あんまり人が知れらんごたるところに、その札が隠してあるようにです、私共の生活のその隅々に、そういうおかげの影が潜められておるのですから、本当におかげを受けられん人はいっちょ本気で思うてみなきゃいけませんそこを、はぁ自分が実意がないもん、丁寧さがないもん、そこでガマ出すならガマ出しよる。
ばってんから真ん中だけじゃガマ出しよるのは、隅々を大事にしよらん、実意丁寧神信心、私は今日のお知らせをそうしてはっきり頂いて今日の御理解7節を頂いて、天地日月の心になること肝要だと、頂いて改めて今日はそれを思います、その丁寧ないわゆる心配りというものがです、神様の機感にかなう、心にかなう、だからおけげを受けるのだということですよね。
どうぞ。